“これくらい”の基準が崩れた時代に、

私たち大人が立て直すべきこと

· 塾長の指導観・雑感

宇都宮市英語専門進学塾EX 塾長のブログ

「最近の子は勉強しない」
そう嘆く声は教育現場や保護者の間でよく聞かれます。

 

けれど、その背後にある構造的な変化に目を向けている人は、意外と少ないかもしれません。

 

いま、学校現場や家庭で子どもを指導する大人たちは、いわゆる“ゆとり世代”が中心です。

 

この世代は、「詰め込みすぎた教育が悪影響を及ぼした」との反省から始まった“ゆとり教育”を、小中高でまるごと体験してきた初めての層でもあります。

 

その結果、何が起きたか。
 

“これくらいはやらせるべき”という大人としての基準が曖昧になったのです。

 

かつての「これくらい勉強して当然」という感覚は、経験の中で自然に体得されてきました。しかし、それが失われた今、親も教師も、「どこまで厳しくしていいのか」「どのラインまで求めるべきなのか」が分からなくなっているのです。

 

その象徴ともいえるのが、「みんなちがって、みんないい」という価値観の浸透です。もちろん、このフレーズ自体は美しい理念を含んでいます。

 

ただ、それが「努力しなくても今のままでいい」といった極端な自己肯定にすり替えられた瞬間から、教育の軸がぐらつき始めました。

 

例えば、最近の中学生に「なぜ英単語を覚える必要があるのか」と問うと、「翻訳アプリがあるから覚えなくてよい」と答える子が少なくありません。

 

昔なら「受験のため」「進学のため」という理由が前提になっていましたが、今はその前提が機能していないのです。価値観が“苦労を回避すること”にシフトしてしまった結果、大人が子どもに何をどう教えるべきかの判断基準まで崩れてしまったのです。

 

かつて私たちが子どもだった頃、大人はよく「勉強しろ」「親孝行しろ」「先生の言うことを聞け」と繰り返していました。

 

それが正しいかどうかはともかく、「大人は子どもを導く存在である」という認識が社会全体に共有されていました。

 

いまはその声が消え、代わりに「学校が悪い」「先生の教え方が悪い」と、大人たちが自ら教育を放棄するかのような姿勢が目立ちます。

 

私たちがいま直面しているのは、「教える側の覚悟」が希薄になった社会です。学校教育の崩壊が叫ばれていますが、学校単体で解決できる問題ではありません。
 

子どもの学力低下を本気で憂うのであれば、私たち大人自身がまず“教育に対する覚悟”を持ち直すべきです。

 

家庭教育・学校教育・社会教育は、それぞれが独立したものではなく、三位一体で機能してこそ意味を持ちます。

 

家庭で学ぶ習慣を育て、学校で知識を深め、社会がその価値を認める——この循環が失われつつある今こそ、どこから崩れているのかを冷静に見つめる必要があります。

 

そして、まず動くべきは“大人”です。
 

子どもに何かを期待する前に、自分自身の教育観を再点検し、「どこまで求めてよいのか」「なぜ求めるのか」の軸を持ちましょう。
 

そうした意識改革があってこそ、教育の再構築が可能になると私は思っています。